空へ
「二等海上保安士・大嶋広海(ひろみ)、特殊救難隊に移動を命ず。
巡視船“ばんだい”潜水士を免ず」
船の掲示板に時季外れの異動辞令が貼られた。すごいな、良かったな、と同僚に肩を叩かれ、大嶋は夢心地で頷いた。なぜ自分が。それが大嶋の心のほとんどを支配していた。
海上保安庁特殊救難隊は、羽田に基地を構え、全国で発生するあらゆる海難事故に対応すべく結成された、いわば海難救助のスペシャリスト集団である。6部隊36名を構成するのは、全国から集められた精鋭達。
宮城県沖で発生したフェリー火災。あの中に突入し、6名の隊員は多くの要救助者を救出した。すべての要救助者を引き上げた直後、積載していた車のガソリンに引火したのか、フェリーは爆発、沈没した。大嶋は巡視船の上からそれを見ていた。自分の力の無さを突きつけられた一件だった。
あの一員になりたいと何度願っただろう。それが今、こうして現実になったというのに。大嶋は自分が選ばれた理由が分からず、素直に喜べないでいた。
一人になりたくて部屋を出た。右舷側に出ると潮の香りが強くなり、涼しい風がうなじの辺りを掠めた。大嶋は甲板に向かって歩を進めた。甲板には先客がいた。ゆらゆらと白い煙が潮風に揺られている。背格好からして、潜水班長の生田だろう。大嶋が足を止めると黒い影が振り返った。やはり生田班長だった。
「先輩、俺──」
「自信がないなら、辞めちまいな」
生田は海面に目を戻すと、大嶋が言い終わる前に小さく、しかしはっきりとした口調で忠告した。
「断っちまえよ、異動の話」
生田は元特殊救難隊員。誰よりもその厳しさを知っていた。
「そ、そんなこと出来るわけ無いでしょ」
「お前の為じゃないぞ。お前に救助される要救助者のためだ」
トッキュー隊員になりたくて、あの事故以来、自分なりに努力してきたつもりだ。ずっと訓練に付き合ってくれていた生田からは、この不安を打ち消すような言葉が欲しかったのかもしれない。大嶋は生田に対して反感を持った。
「まぁ、救助に行く前に、トッキューの厳しい訓練で挫折するかもな。そんときはいつでも戻ってきて良いぞ。お前の分、空けといてやるよ」
「結構です。俺は負けて帰ってきたりしません。絶対、一人前のトッキューになって見せます」
きりっと黒い背中をにらみ、言い放つ。あなたには、背中を押して欲しいのだ。と全身で表現するかのように。
生田がゆっくりと振り返った。彼は煙草をくわえた口の端を上げ、にやりと笑った。
「下っ端同然のガキが粋がって啖呵切ってじゃねぇよ」
「なっ」
「ほら、そうやってすぐ食ってかかる。お前みてぇなガキはさっさとトッキューでもキッキューでも行っちまえよ。静かになって清々する」
生田は口から煙草を取って靴の裏でもみ消し、持っていた携帯灰皿に捨てた。
「俺様が7年在籍した部隊なんだ。俺より短い期間で帰ってきやがったら、一生便所磨きさせるからな」
大嶋はあっけにとられた顔をほころばせ、力強く頷いた。
「励めよ」
「頑張ります」
大嶋の心は、決まった。
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